LOGIN朝の光が、冷たいガラス窓を白く染めていた。 長い夜が終わった。 だが優には、時間が流れた感覚がなかった。 ほとんど眠っていないはずなのに、不思議と頭は冴えている。 張り詰めすぎた神経が、疲労すら遮断していた。 ICUの前に立ち、優はガラス越しにひかるを見る。 眠ったままのひかる。 小さな胸が、規則正しく上下している。 それだけでいい。 生きている。 それ以外は、何も望まない。 何度そう自分に言い聞かせても、胸の奥にある恐怖は消えなかった。 もし、あの呼吸が止まったら。 もし、もう二度とその瞳を見ることができなかったら。 考えただけで、心臓を素手で握り潰されるような痛みが走る。 ――俺は、こんなにもひかるを愛していたのか。 いや。 違う。 今、突然愛したわけではない。 ずっと前からだった。 五年前。 優は、その気持ちを誰にも見せなかった。 沙羅と結婚していた頃でさえ、自分の本当の感情をひた隠しにしてきた。 仕事を優先した。 感情を抑えた。 そして、自分自身にさえ嘘をついた。 沙羅との結婚が終わったときも、「仕方がなかった」と思い込もうとした。 けれど、本当は違った。 優の心の奥には、ずっとひかるがいた。 誰よりも愛していた。 だからこそ、その事実を認めることが怖かった。 認めれば、これまでのすべてが崩れてしまう気がした。 だから隠した。 ひたすら隠し続けた。 それなのに今――。 ひかるを失うかもしれないという現実を前にして、もう何ひとつ隠せなくなっていた。 その瞬間だった。 背後から、柔らかなヒールの音が響く。 規則正しく、迷いがない。 この病院の誰よりも場に馴染まない音。 優は振り返る。 そして、一瞬だけ空気が凍った。「……久しぶりね、優」 女は微笑んでいた。 一分の隙もない装い。 淡いベージュのコート。整えられた髪。完璧なメイク。 まるでこれからパーティーにでも向かうような姿。 病院の廊下には、とても場違いだった。 ここは、生と死の境界に最も近い場所だ。 そして、そこへ現れたのは――。 雪城沙羅。 五年前、優と離婚した女。 互いに仕事を優先し、感情のすれ違いの果てに終わった結婚。 少なくとも、世間はそう思っている。 優は沙羅を見つめた。 胸の奥に、かつ
深夜二時。 中央総合病院は、昼間とは別の場所のように静まり返っていた。 人の気配はほとんどない。 照明も落とされ、長い廊下はどこまでも白く、どこか現実味が薄い。 足音さえも吸い込まれてしまいそうな静寂の中で、優はまだ帰っていなかった。 社長室から持ち込ませたノートパソコンは開かれたままだ。 画面には重要な資料が表示されている。 会社の決裁事項。 海外案件。 今後のスケジュール。 普段なら一瞬で判断できることばかりだった。 だが今夜だけは、何一つ頭に入ってこない。 何度、画面をスクロールしても、視線は同じ場所に戻ってしまう。 ガラス越しの、久遠ひかる。 それだけだった。 規則正しく鳴るモニター音。 小さく上下する胸。 生きている。 それだけが、今の救いだった。 優は無意識に拳を握った。 生きている。 何度も心の中で繰り返す。 それなのに、胸の奥に張りついた不安は消えなかった。 医師の言葉が蘇る。「今夜が山です」 つまり、いつ容態が急変してもおかしくない。 その言葉を聞いた瞬間から、優の中では時間が止まっていた。 もし、このガラスの向こうから心拍音が消えたら。 もし、二度とその瞳が開かなかったら。 考えるだけで、呼吸が苦しくなる。 ――俺は、また失うのか。 五年前もそうだった。 大切だったものから逃げた。 自分の気持ちを認めることが怖くて、ひかるを傷つけた。 そして五年経った今も、優は彼女への想いを胸の奥に閉じ込めていた。 社長として。 一人の男として。 何もなかったような顔をして。 だが、今になって思う。 そんなふうに自分を偽ってきた意味など、あったのだろうか。 優は腕を組み、壁にもたれたまま微動だにしない。 ただ、ひかるを見つめ続けていた。 そのとき。 微かな音がした。 最初は空耳かと思った。 だがもう一度。 ……動いた? 優は反射的に立ち上がった。 椅子が床を擦る音が、静かな廊下に響く。 ガラスに手をつき、身を乗り出す。 ひかるの唇が、わずかに震えていた。 看護師が気づき、すぐに医師を呼ぶ。 慌ただしく人が集まる中、優だけが時間から取り残されたように動けなかった。 ――ひかる。 声をかけたい。 名前を呼びたい。 けれど、怖かった。 期待して、また絶
どれほど時間が経ったのか、優には分からなかった。 手術室の前。 無機質な長椅子が並ぶ、白く冷たい廊下。 硬すぎる背もたれの椅子に腰を下ろす気にもなれず、優はただ一人、立ち続けていた。 頭上では、赤いランプが無情に灯っている。 まだ終わらない。 まだ、ひかるは生死の境目にいる。 普段なら、どんな状況でも冷静でいられるはずだった。 会社を背負い、数え切れない決断をしてきた。誰かに感情を悟られることもない。苦しいときほど、平然としていることを自分に課してきた。 だが、今だけは違った。(ひかる……) 心の中で、その名前を繰り返す。 五年間。 優は一度も、この想いを口にしなかった。 愛している。 ずっと、愛していた。 五年前に別れてからも、その気持ちは消えなかった。 むしろ、離れたことで、どれほど自分の中でひかるが大きな存在だったのかを思い知らされた。 自分から手を離したひかるには、会わない。 連絡もしない。 遠くから彼女の活躍を知るだけ。 それでいいと思っていた。 いや――そう思い込もうとしていた。 自分には、ひかるを愛する資格などない。 一度、自分の手で彼女を傷つけた。 だから、今さら自分の気持ちを押しつけることなどできない。 ひかるが幸せなら、それでいい。 そう言い聞かせながら生きてきた。 だが。(もし……ここで、ひかるを失ったら?) その考えだけは、どうしても受け入れられなかった。 胸の奥が締めつけられる。(嫌だ……) 初めて、心の中で幼いほど率直な言葉が浮かんだ。(ひかるを失いたくない) そのとき――― 手術室の扉が開いた。 優の心臓が大きく跳ねる。 医師が出てくる。「……先生」 自分の声とは思えないほど、低かった。 医師は一瞬だけ視線を落とし、それから優を見る。「手術は成功しました」 その瞬間。 肺に溜まっていた空気が、一気に抜けた。 助かった。 その言葉だけが、頭の中で何度も反響する。 助かった。 ひかるは、生きている。 だが――。「ただ……」 優の表情が固まる。「手術中、一時的に心停止を起こしました」 世界から音が消えた。「……心停止……?」「すぐに蘇生できましたが、非常に危険な状態でした」 あと少し遅れていたら。 もし蘇生できなかったら。
病院特有の消毒液の匂いが、優の肺を満たしていた。中央総合病院、救命救急センター。白すぎる壁。無機質な照明。磨かれた床に反射する光が、現実感を薄くしている。自動ドアが開いた瞬間、ストレッチャーが目の前を通り過ぎる。血に濡れた髪。青白い顔。緊急手術のため、手術室へ向かう、久遠ひかるだった。「先生!!早く!!」看護師の叫びが、静まり返った空間を切り裂く。優の足が止まる。……嘘だろ。理解が追いつかない。現実感がない。さっきまで、この街のどこかで息をしていたはずの人間が。笑っていたはずの人間が。こんなにも、簡単に壊れてしまうのか。運ばれていく横顔を見た瞬間、胸の奥に激しい痛みが走る。脳裏に、不意にある光景が浮かんだ。まだ売れていなかった頃のひかる。撮影帰り、腹を空かせていた彼女に、優が何気なく買い与えたハンバーガー。「えっ、いいんですか!?」目を輝かせ、両手で包み込むように受け取っていた。包装紙を開く仕草すら子供のようで——そして一口かじると、「おいしい……!」頬を緩ませ、心から幸せそうに笑った。その顔を見て、なぜか胸の奥が温かくなったことを、今でも覚えている。……どうして、今それを思い出す。「ご家族の方ですか!?」医師の声に、はっとする。言葉が詰まる。違う。家族じゃない。もう、何の関係もない。それでも、「……私が責任者です」気づけば、そう答えていた。運ばれていくストレッチャーを、ただ目で追うことしかできない。そのとき、もう一つの記憶が押し寄せる。『優さん!』無邪気な声。振り向くと、いつも少しだけ弾む足取りで近づいてきた。まだ何者でもなかった自分を、まっすぐに見上げる瞳。あの呼び方が、どれほど特別だったのか―――今さら思い知る。ストレッチャーが手術室へ消えていく。扉が閉まる。赤いランプが灯る。手術中。その三文字が、残酷なほど重い。「頭部を強く打っています。出血も多い……正直、予断を許しません」医師の言葉が、遅れて脳に届く。予断を許さない。つまり……最悪の場合もあるということだ。優は壁に手をついた。指先が震えている。視界の奥で、さらに別の記憶が蘇る。激しい雨の夜だった。仕事で追い詰められていたひかるが、ついに感情を抑えきれなくなった夜。自分の腕の中で、小さく震えて
雨脚は弱まるどころか、さらに激しさを増していた。フロントガラスを叩きつける雨粒が連なり、まるで無数の糸が夜の街を覆い隠しているかのようだった。タクシーのワイパーが高速で動き続ける。それでも視界は悪い。滲む光。歪む信号。ヘッドライトが水面に反射し、道路は鏡のように輝いていた。「もうすぐ着きますよ」運転手の声に、ひかるは小さく頷いた。スマートフォンの画面には、藤崎優の緊急インタビュー。—すべての責任は私にありますーその一文を、何度も読み返してしまう。胸が締めつけられる。どうして、そこまで。自分を守るために、彼が盾になっている。あまりにも分かりやすく、あまりにも真っ直ぐなやり方で。考えれば考えるほど、分からなくなる。距離を置こうとしたのは、あなたの方だったのに。過去を断ち切るように線を引いたのも、あなたなのに。なのに、なぜ……。「ここで降ります」ビルの少し手前で、ひかるは料金を支払った。これ以上、ビルの近くに車を横付けさせたくなかった。報道陣がいるかもしれないし、優の会社の前で騒ぎを起こすわけにはいかない。ドアを開けた瞬間、強い雨が肩を打つ。冷たい。髪もコートも、一瞬で濡れていく。だが、不思議と頭は冴えていた。むしろ、研ぎ澄まされている。走ろうとした、そのとき。後方から、甲高いブレーキ音が響いた。振り返る。白い乗用車。スピードが落ちない。……滑っている。タイヤが水を切る嫌な音。ハンドル操作を誤っているのが、遠目にも分かった。理解した瞬間、体が動かなかった。逃げなきゃ。そう思うのに、足が地面に貼りついたように動かない。時間だけが異様に引き伸ばされる。光が迫る。世界が白く弾ける。次の瞬間、強烈な衝撃。金属がぶつかる鈍い音が夜の闇に響き、衝突の勢いでひかるの体が宙へ放り出された。だが。痛みは、遅れてきた。体が宙に浮く感覚。重力が消えたような、一瞬の無音。そして、アスファルトへ叩きつけられる。呼吸ができない。肺が空気を求めて痙攣する。「きゃああ!!」「事故だ!!」「誰か救急車呼んで!!」通行人の悲鳴が雨音を切り裂いた。傘を差した人々が足を止め、瞬く間に小さな人だかりができる。倒れたひかるを見て、一人の男が息を呑んだ。「……久遠ひかるじゃないか!?」ざわめきが広がる。「え、本当に!
雨の夜だった。細かな雨粒がフロントガラスを絶え間なく叩き、ワイパーが規則正しくそれを押し流していく。滲んだ街の灯りは水彩画のように揺れ、現実と記憶の境界さえ曖昧にしていた。撮影を終えた久遠ひかるは、車窓に流れる光をぼんやりと眺めていた。炎上騒動から三日。現場は、何事もなかったかのように回っている。スタッフの態度も柔らかくなった。スポンサーも戻った。監督も以前と変わらぬ口調で演技の指示を出す。すべてが、元通り。……元通りのはずなのに。胸の奥に、小さな棘のような違和感が残っていた。取り除こうとすると、かえって存在を主張する、そんな厄介な感覚だった。マネージャーがバックミラー越しに言う。「今日はもう報道陣いませんね」「そう……」短く答える。声が思ったよりも乾いていた。そして、不意に聞いた。「藤崎社長は……何か言っていましたか?」マネージャーは少し驚いた顔をした。ひかるの方から彼の名前を出すことは、ほとんどなかったからだ。「いえ。いつも通り、“問題が解決したならそれでいい”とだけ……」ひかるは視線を落とした。らしい、と思う。助けたことすら、伝えない。恩を感じさせない。貸しを作らない。まるで最初から、何も起きていないかのように処理する。……ずるい人。心の中だけで呟く。そうでもしなければ、胸の奥がわずかに揺れてしまうから。そのとき、車が赤信号で止まった。交差点の大型ビジョンが、突然切り替わる。ニュース速報。『人気女優・久遠ひかる 新たな疑惑』空気が凍った。運転手が思わず音量を上げる。画面に映し出されたのは、五年前の写真だった。少し若いひかる。そして隣には、藤崎優。距離の近い、親密そうな一枚。ざわめくアナウンサーの声。「当時、既婚者だった藤崎優さんとの関係が……」そこで映像が切り替わる。ホテルのエントランスを、二人が並んで歩く姿。記憶が、ひかるの心臓を掴んだ。息ができない。「……嘘」かすれた声が漏れる。もう終わったはずだった。風化したはずだった。なのに、どうして、今さら……『略奪愛ではないかとの声も上がっています』『当時の妻との関係悪化の原因は』「消して!」思わず叫んでいた。運転手が慌てて画面をオフにする。だが遅い。もう見てしまった。封じ込めていた記憶が、音を立てて開いていく。あの頃、まだ何
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直